- 中川一政
- Kazumasa Nakagawa
- なかがわ かずまさ
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薔薇/中川一政
福浦突堤/中川一政
駒ケ岳/中川一政
白椿・静物/中川一政
向日葵/中川一政
二つの壷と薔薇/中川一政
略歴 | |
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【1893年(明治26年)】 2月14日、東京本郷区西片町に長男として生まれる。父・政朝(金沢の前田家刀剣鍛冶、松戸家より出る)、母・すわ。 【1903年(明治36年)】 巡査を退職した父が巣鴨監獄前に放免茶屋を営むことになり、東京市外巣鴨村向原に転居。 【1907年(明治40年)】 3月、本郷区誠之尋常高等小学校高等科を卒業。 4月、東京都神田錦町の私立錦城中学校(旧制)に入学。 【1908年(明治41年)】 「少年世界」の表紙図案の募集に応募、応募総数862通の中から厳密な審査の結果入選し(6人)同誌1月号に写真版が掲載される。 【1910年(明治43年)】 「スバル」に短歌が掲載される。 【1912年(明治45年)】 3月、錦城中学校を卒業。卒業後、法政大学高等予科やドイツ語専修学校に一時通う。 【1914年(大正3年)】 北村亮造氏よりニュートンの絵具を贈られ、初めての油彩画「酒倉」を描く。巽画会展に「酒倉」を出品し、岸田劉生の目にとまり初入選。 【1915年(大正4年)】 岸田劉生を訪れる。草土社結成。武者小路実篤、志賀直哉、長與善郎らを知る。 【1919年(大正8年)】 現在の松任市相川新町清水家にしばらく滞在し、肖像画、風景画等を描く。 【1922年(大正11年)】 森田恒友、倉田白羊、小杉未醒、山本鼎、長谷川昇、梅原龍三郎、足立源一郎が春陽会を創立。同会に客員として参加する。 【1923年(大正12年)】 伊藤暢子(伊藤道郎の妹、千田是也の姉)と結婚。春陽会会員となる。 【1925年(大正14年)】 訳書「ゴオホ」を出版。杉並区永福町に転居。 【1931年(昭和6年)】 初めて麹町で、水墨画の個展を開く。次男・晴之助生まれる(他に子供は、長男は元劇団四季副社長、舞踊評論家の中川鋭之助と長女・桃子)。 【1937年(昭和12年)】 小川芋銭、菅楯彦らと墨人倶楽部を結成。 【1938年(昭和13年)】 新文展審査員となる。 【1940年(昭和15年)】 藤田嗣治・石井柏亭らと邦画一如会を結成。 【1948年(昭和23年)】 「心」の同人となる。 【1949年(昭和24年)】 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える。「福浦」日本一広いアトリエと自慢する。箱根「駒ヶ岳」などの制作に励む。 【1958年(昭和33年)】 光琳生誕300年記念展覧会が北京で開催され、団長として中国を訪問。 【1960年(昭和35年)】 福浦を描いた「漁村凱風」が全国知事会より東宮御所に献納される。 【1961年(昭和36年)】 歌会始の召人に選ばれ、召歌を詠進。 【1962年(昭和37年)】 ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで妻とともにインド、中近東、ヨーロッパを経てミュンヘンを訪れる。ニース・南仏に滞在の後自動車でピレネー山脈を越えて1ヶ月スペインをめぐる。 10月、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演。 11月2日に帰国。 【1963年(昭和38年)】 中国で開催された日本現代油絵展の画家代表団の団長となり、中国を訪問。 【1965年(昭和40年)】 ソ連文化省の招待で、同国美術演劇事情を視察した後、欧州9カ国を巡る。 【1970年(昭和45年)】 妻・暢子が死去。 【1975年(昭和50年)】 中国文化交流使節日本美術家代表団名誉団長として中国を訪問。 11月、文化勲章を受章。 【1984年(昭和59年)】 東京都の名誉都民となる。 【1986年(昭和61年)】 松任市(現・白山市)の名誉市民となる。 10月10日、母の故郷である石川県松任市(現・白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現・白山市立松任中川一政記念美術館)開館。 【1989年(平成元年)】 3月2日、アトリエのある神奈川県真鶴町に、2つ目の美術館となる真鶴町立中川一政美術館が開館。 【1991年(平成3年)】 2月5日、心肺不全のため逝去。97歳11ヶ月。 9月、真鶴町名誉町民の第1号となる。 |