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藤島武二
Takeji Fujishima
ふじしま たけじ

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    • 黒扇/藤島武二


    • 蝶/藤島武二


    • 神戸港の朝陽/藤島武二


    • 池畔納涼/藤島武二


    • 風景/藤島武二


    • アルチショ/藤島武二
略歴  
【1867年(慶応3年)】
9月18日、鹿児島県鹿児島市池之上町で薩摩藩士藤島家の三男として生まれる。父・賢方、母・たけ子。幼名は猶熊。幼年時代から画才を発揮。北斎漫画や油絵を模写する。

【1882年(明治15年)】
四条派の日本画家平山東岳に学ぶ。

【1885年(明治18年)】
上京し、円山四条派の日本画家川端玉章に入門し、玉堂と号する。

【1886年(明治19年)】
日本画研鑚のかたわら東京仏欄西語学校に入学、フランス語を学ぶ。

【1890年(明治23年)】
洋画に転向し、生巧館で曽山幸彦、中丸精十郎、松岡寿に指導を請う。

【1891年(明治24年)】
明治美術会の会員になる。明治美術会第3回展に後輩の白瀧幾之助の名で「無惨」を出品、森鴎外に称揚される。

【1893年(明治26年)】
7月、三重県尋常中学校(現・津高等学校)助教諭となり、津に赴任。

【1896年(明治29年)】
白馬会の結成に参加、会員となる。
9月、東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が新設され、1歳年上の黒田清輝の推薦で助教授となる。

【1901年(明治34年)】
雑誌「明星」の表紙を担当。カットや挿絵の製作を含めて6年ほど継続。

【1905年(明治38年)】
文部省から絵画研究のため4年間の留学を命ぜられ、渡欧。

【1906年(明治39年)】
パリに住み、私立アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学ぶ。国立美術学校ではフェルナン・コルモンの指導を受ける。

【1907年(明治40年)】
ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスを巡り、各美術館を訪れる。

【1908年(明治41年)】
イタリアに移り、ローマでフランス・アカデミー院長のエミール・オーギュスト・カロリス=デゥランの指導を受ける。スイス旅行中、ローマに残しておいた作品の大半が盗難に遭う。

【1910年(明治43年)】
帰国。東京美術学校の教授となる。

【1911年(明治44年)】
白馬会解散後、文展や帝展の重鎮として活躍する。

【1912年(明治45年)】
岡田三郎助とともに本郷洋画研究所を設立。

【1913年(大正2年)】
川端絵画研究所の洋画部新設に伴い、その指導を行う。約2ヶ月間朝鮮に出張。

【1914年(大正3年)】
二科会設立に際して革命を支持するが、結局黒田清輝に説得され文展に留まる。

【1918年(大正7年)】
東京美術学校の改革に伴い、「藤島教室」が生まれる。

【1919年(大正8年)】
文展が廃止となり、帝国美術院美術展覧会(帝展)として再組織される。帝展審査員となる。

【1924年(大正13年)】
帝国美術院会員となる。

【1928年(昭和3年)】
貞明皇后より御学問所を飾る油絵制作の御下令を受ける。日の出風景を描くこと決心、日本各地を取材旅行する。

【1933年(昭和8年)】
初めて台湾を1ヶ月程旅行する。

【1934年(昭和9年)】
帝室技芸員となる。

【1935年(昭和10年)】
第10回朝鮮美術展審査員として朝鮮に赴く。文部省の帝国美術院改組に対して帝展不開催論を新聞に発表。室戸岬に赴き、台湾を再訪する。

【1937年(昭和12年)】
岡田三郎助、横山大観、竹内栖鳳とともに第1回文化勲章受章者となる。冬の蔵王を写生旅行する。中国に渡り、内蒙古ドロンノールまで足をのばし、理想的な日の出と出会う。

【1938年(昭和13年)】
第1回満州国美術展覧会の審査相談役として新京に赴き、中国中南部の戦跡を巡る。

【1939年(昭和14年)】
東京美術学校油画科の主任となる。

【1943年(昭和18年)】
3月19日、脳溢血のため本郷の自宅にて逝去。75歳。

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