- 山口薫
- Kaoru Yamaguti
- やまぐち かおる
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花の像/山口薫
金環色(蝕)の若駒/山口薫
桃/山口薫
娘二人像/山口薫
ある春の唄/山口薫
孤独者のすまい/山口薫
略歴 | |
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【1907年(明治40年)】 8月13日、群馬県群馬郡箕輪村(現・高崎市)の旧家の8男3女の末子として生まれる。父・彦太郎、母・佐登。 【1921年(大正10年)】 この頃、姉から油絵の道具を贈られ、東京美術学校に入学した従兄からの影響などもあり、油絵を描き始める。 【1924年(大正13年)】 3月、高崎中学校4年修了時に水戸高校を受験して失敗。 画家となる決意をし、東京美術学校受験のため、中学校の冬休みを利用して上京、川端画学校でデッサンを学ぶ。 同校で矢橋六郎と知り合う。 【1925年(大正14年)】 3月、高崎中学校を卒業。 4月、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。 【1926年(大正15年)】 2年進級時に特待生となり、1年間授業料を免除される。 友人と春秋会を作り、毎月批評会を行う。 また小林万吾の私塾同舟社に入る。 10月、第7回帝展に初入選。 【1927年(昭和2年)】 和田英作教室に入る。 この頃、川島理一郎の主宰する批評会金曜会に加わり、宮坂勝、難波田龍起らを知る。 【10月、第8回帝展に入選。 【1929年(昭和4年)】 1月、第4回1930年協会に入選。 5月、第4回国画会展に入選。 11月、高崎中学の後輩、松本中義、豊田一男とともに、高崎公会堂、前橋市立図書館で赤羊社洋画展を開催。 【1930年(昭和5年)】 3月、東京美術学校西洋画科を卒業。 9月、第17回二科会展に入選。 9月末、横浜港より靖国丸にて渡航。 11月、川島理一郎、矢橋六郎の出迎えを得てパリ着。 【1931年(昭和6年)】 4月、ヴェルジネ街のVilla Leone Studioに移る。 この頃、森芳雄を知る。 グラン・ショミエール研究所(パリ)に通い、南仏、イタリア、スペインなどを旅行する。 【1932年(昭和7年)】 サントロペよりカーニュに移る。 【1933年(昭和8年)】 国画会会友に推薦。 7月、矢橋六郎とともにマルセイユより白山丸にて帰国。 【1934年(昭和9年)】 4月、津田(大津田)正豊、津田正周、長谷川三郎、村井正誠、矢橋六郎、シャルルユーグとともに新時代洋画展を結成。 5月、国画会を退会。 【1936年(昭和11年)】 1月、最初の妻と結婚。 7月、離婚。この前後から極度の精神衰弱におちいり郷里で静養。 7月、新時代洋画展が山口を含む「新浪漫派」と、「実験室」に分ける声明を発表。 【1937年(昭和12年)】 2月、新時代洋画展の同人が中心となり、「フォルム」「黒色」などの同人を会友として、自由美術家協会を結成。 9月、父・彦太郎が死去。 【1939年(昭和14年)】 12月、越前谷マサ(正子)と結婚。 【1940年(昭和15年)】 7月、自由美術家協会が美術創作家協会に改称。 【1945年(昭和20年)】 4月頃、郷里に疎開。 【1950年(昭和25年)】 自由美術家協会を退会。モダンアート協会を結成。文化学院教官となる。 【1951年(昭和26年)】 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)の講師となる。 【1953年(昭和28年)】 東京芸術大学(専任)講師になる。 【1956年(昭和31年)】 現代日本美術展で佳作賞を受賞。 【1958年(昭和33年)】 第2回グッゲンハイム賞国際美術展に招待出品、日本国内賞を受賞。 【1959年(昭和34年)】 第14回毎日美術賞を受賞。東京芸術大学助教授になる。 【1960年(昭和35年)】 昭和34年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。 【1962年(昭和37年)】 国際形象派展の設立に際して同人として参加。 【1964年(昭和39年)】 東京芸術大学の教授となる。 【1968年(昭和43年)】 5月19日、胃癌のため逝去。60歳。 |