- 香月泰男
- Yasuo Kazuki
- かづき やすお
ご売却に関しての詳しい情報は買取方法についてをご覧ください。
涅槃/香月泰男
母子/香月泰男
鳥/香月泰男
デモ/香月泰男
青の太陽/香月泰男
業火/香月泰男
略歴 | |
---|---|
【1911年 (明治44年)】 10月25日、山口県大津郡三隅町久原下3312で、香月貞雄・八千代の子として生まれる。兄弟なし。 【1921年 (大正10年)】 父母協議離婚。母・八千代一時家を出る。厳格な祖父に育てられる。 【1929年 (昭和4年) 】 3月、山口県立大津中学校を卒業。 東京美術学校西洋学科を受験するが失敗し、本郷の川端画学枚に通う。 【1931年 (昭和6年)】 4月、東京美術学校西洋学科に入学。 藤島武二教室に入る。しかし、自分の絵が壊されることを恐れ、教授が教室にくるとほとんど教室を離れるようにしていた。 【1934年 (昭和9年)】 4月、第9回国画会展に「雪降りの山陰風景」が入選。 【1935年 (昭和10年)】 4月、第10回国画会に「雪庭」が入選。 【1936年 (昭和11年)】 3月、卒業制作に「二人坐像」「自画像」を出品して、東京美術学枚油絵科を卒業。 師範学校・中学校・高等女学枚図画科の教員免許を取得する。 4月、第11回国画会に「雪庭」が入選。 5月、北海道庁立具知安中学校の美術教師として赴任する。 10月、文部省美術展覧会鑑査展に卒業制作の「二人坐像」が入選。 【1938年 (昭和13年)】 1月、山口県立下関高等女学校(現県立下関南高等学校)教諭に転任。 4月、第13回国画会に「猫」が入選。 6月、藤家婦美子と結婚。 【1939年 (昭和14年)】 4月、第13回国画会に「犬」「少年」入選、国画奨学賞を受賞する。 5月、長男・直樹が生まれる。 7月、新宿・月光荘における国画会新人展に選ばれ「白花」を出品。 10月、第3回文部省美術展覧会(文展)に「兎」が特選。 【1940年 (昭和15年)】 3月、第15回国画会に「棚と壷」「枯れカンナ」が入選。佐分真を記念して設けられた佐分賞を受賞。 4月、長女・慶子が生まれる。 10月、紀元2600年奉祝美術展覧会に「石と壷」が入選。 【1941年 (昭和16年)】 10月、次女・敞子が生まれる。 【1942年 (昭和17年)】 1月17日祖父・春齢が死去(90才)。 10月、第5回文展に「水鏡」が入選。 12月30日、教育召集令状を受ける。 【1945年 (昭和20年)】 ソ連に抑留され、シベリア、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが原体験となり、その後の作品全体の主題・背景となる。 【1946年 (昭和21年)】 2月10日、母・八千代、津和野の橋本家で死去。 5月、セーヤから一人だけ山を一つ越えたコモナールの収容所に移される。その後、さらに奥のチェルノゴルスクの第一収容所に移される。 【1947年 (昭和22年)】 5月、シベリア抑留から引き揚げ、下関高等女学校へ復職。 【1948年 (昭和23年)】 3月、山口県立深川高等女学校(現・長門市山口県立大津高等学校)に転任。 5月、次男・理樹が生まれる。 【1949年 (昭和24年)】 4月、第23回国画会に「埋葬」「水浴」。サロン・ド・プランタン賞を受賞。 福島繁太郎が設立したフォルム画廊にて第1回個展を開く。 その後しばしば、国内外の美術展や個展に作品を出品する。 【1959年 (昭和34年)】 10月、朝日新聞主催西部秀作美術展で「人と梟」が第2席・八幡製作所長賞を受賞。 【11月3日、中国新聞社より、郷土美術振興に寄与した功に対し、第16回中国文化賞が授与される。 【1960年 (昭和35年)】 3月、山口県立大津高等学校を依願退職。念願の画家活動に専念する。 【1962年 (昭和37年)】 1934年以来所属していた国画会を退会。 【1966年 (昭和41年)】 1月、九州産業大学芸術学部油絵科主任教授を委嘱される。 【1968年 (昭和43年)】 11月、第22回西日本文化賞(社会文化部門)を西日本新聞社より贈られる。 【1969年 (昭和44年)】 4月、財団法人新潮文芸振興会より、第1回日本芸術大賞が贈られる。 【1974年 (昭和49年)】 3月8日、心筋梗塞で逝去。62歳。 |