- 小野竹喬
- Cikkyou Ono
- おの ちっきょう
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朝空/小野竹喬
樹間の茜/小野竹喬
晨朝/小野竹喬
新冬/小野竹喬
夕茜/小野竹喬
南国/小野竹喬
略歴 | |
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【1889年 (明治22年)】 11月20日、岡山県小田郡笠岡村(現・笠岡市西本町)に商家浜中屋の四男として生まれる。父・才次郎。本名英吉。 【1903年 (明治36年)】 高等尋常小学校を卒業。 長兄の小野竹桃の勧めにより京都の竹内栖鳳に入門。 【1905年 (明治38年)】 「竹橋」の雅号をあたえられる。 【1909年 (明治42年)】 京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)別科に入学。 【1910年 (明治43年)】 黒猫会(ル・シャ・ノワール)を結成。 【1911年 (明治44年)】 京都市立絵画専門学校別科を卒業。 黒猫会解散。 仮面会(ル・マスク)の結成に参加。 父・才次郎が死去。 【1914年 (大正3年)】 9月28日、弟・五六が死去。 【1916年 (大正5年)】 第10回文展で笠岡を描いた「島二作」が特選を受賞。 トラヨと結婚。 【1918年 (大正7年)】 1月20日、土田麦僊らと「国画創作協会(国展)」を設立。 【1921年 (大正10年)】 10月4日、土田麦僊、黒田重太郎らと渡欧。 【1922年 (大正11年)】 5月、帰国。 【1923年 (大正12年)】 雅号を「竹喬」と改める。 次兄・素平が死去。 【1928年 (昭和3年)】 7月28日、国画創作協会が解散。 【1929年 (昭和4年)】 6月、帝国美術院推薦となる。 【1931年 (昭和6年)】 京都市北区等持院北町に転居。 【1936年 (昭和11年)】 10月、新文展審査員になる。 【1944年 (昭和19年)】 1月25日、妻・トラヨが死去。 【1947年 (昭和22年)】 3月、京都市美術専門学校(現・京都市立芸術大学)の教授に就任。 7月、日本芸術院会員となる。 【1950年 (昭和25年)】 4月、京都市立美術大学教授に就任。 【1958年 (昭和33年)】 3月、社団法人日展の発足にあたり、常務理事となる。 【1966年 (昭和41年)】 11月、笠岡市名誉市民となる。 【1968年 (昭和43年)】 11月3日、文化功労者の表彰を受ける。 【1976年 (昭和51年)】 11月3日、文化勲章を受章。 【1979年 (昭和54年)】 5月10日、京都で胃癌のため逝去。89歳。 【1982年 (昭和57年)】 笠岡市に笠岡市立竹喬美術館が開館。 【2001年 (平成13年)】 笠岡市立竹喬美術館新館が開館。 |