- 浜口陽三
- Yozou Hamaguchi
- はまぐち ようぞう
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22のさくらんぼ/浜口陽三
黒いさくらんぼ/浜口陽三
パリの屋根/浜口陽三
ロビーナのさくらんぼ/浜口陽三
ビンとレモン/浜口陽三
雲/浜口陽三
略歴 | |
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【1909年 (明治42年)】 ヤマサ醤油第10代目社長濱口儀兵衛の三男として和歌山県有田郡広町(現・広川町)で生まれる。 父は南画を学び、美術品の収集家でもあった。 【1912年 (明治45年)】 立教中学に入学するが、美術の道に進むことを決め、京華中学に転校。 【1914年 (大正3年)】 千葉県銚子市に移住。 【1921年 (大正10年)】 上京。 【1927年 (昭和2年)】 東京美術学校(現東京芸大)塑造科に入学。 【1930年 (昭和5年)】 梅原龍三郎の助言により東京美術学校を中退、渡仏。パリ、ドイツ、アメリカなどを転々とする。 サロン・ドートンヌなどに出品。 【1935年 (昭和10年)】 ニューヨーク滞在(~1936年)。 【1937年 (昭和12年)】 パリで自由美術家協会結成に参加。 銅版画の制作を始める。 初作品「猫」を発表。 【1939年 (昭和14年)】 第二次世界大戦のため帰国。 【1953年 (昭和28年)】 再渡仏し、パリに居住。 日本版画協会に創立会員として参加。 【1954年 (昭和29年)】 第一回現代日本美術展で「スペイン風油入れ」「ジプシー」が佳作賞を受賞。 【1955年 (昭和30年)】 ベルソーという器具を使って深みのある画面を創出、しかも微妙な諧調を持った独自のカラーメゾチントを開発、極めて個性的な世界を生み出している。「西瓜」。 【1957年 (昭和32年)】 第一回東京国際版画ビエンナーレ展で「水差しとぶどうとレモン」「青いガラス」が東京国立近代美術館賞を受賞。 サンパウロ・ビエンナーレで「魚と果物」「したびらめ」「西瓜二切」等が国際美術館グランプリを受賞。 【1958年 (昭和33年)】 毎日美術賞を受賞。 ルガノ国際版画ビエンナーレ展でグランプリと買上賞を受賞。 【1961年 (昭和36年)】 リュブリアナ国際版画展(ユーゴスラビア)でグランプリを受賞。 【1966年 (昭和41年)】 ポーランドのクラコウ国際版画ビエンナーレ展で特別賞を受賞。 ワルシャワ国立美術館買上賞を受賞。 【1972年 (昭和47年)】 第4回クラコウ国際版画ビエンナーレ展で「びんとさくらんぼ」が受賞。 【1977年 (昭和52年)】 【1909年 (明治42年)】 ヤマサ醤油第10代目社長濱口儀兵衛の三男として和歌山県有田郡広町(現・広川町)で生まれる。 父は南画を学び、美術品の収集家でもあった。 【1912年 (明治45年)】 立教中学に入学するが、美術の道に進むことを決め、京華中学に転校。 【1914年 (大正3年)】 千葉県銚子市に移住。 【1921年 (大正10年)】 上京。 【1927年 (昭和2年)】 東京美術学校(現東京芸大)塑造科に入学。 【1930年 (昭和5年)】 梅原龍三郎の助言により東京美術学校を中退、渡仏。パリ、ドイツ、アメリカなどを転々とする。 サロン・ドートンヌなどに出品。 【1935年 (昭和10年)】 ニューヨーク滞在(~1936年)。 【1937年 (昭和12年)】 パリで自由美術家協会結成に参加。 銅版画の制作を始める。 初作品「猫」を発表。 【1939年 (昭和14年)】 第二次世界大戦のため帰国。 【1953年 (昭和28年)】 再渡仏し、パリに居住。 日本版画協会に創立会員として参加。 【1954年 (昭和29年)】 第一回現代日本美術展で「スペイン風油入れ」「ジプシー」が佳作賞を受賞。 【1955年 (昭和30年)】 ベルソーという器具を使って深みのある画面を創出、しかも微妙な諧調を持った独自のカラーメゾチントを開発、極めて個性的な世界を生み出している。「西瓜」。 【1957年 (昭和32年)】 第一回東京国際版画ビエンナーレ展で「水差しとぶどうとレモン」「青いガラス」が東京国立近代美術館賞を受賞。 サンパウロ・ビエンナーレで「魚と果物」「したびらめ」「西瓜二切」等が国際美術館グランプリを受賞。 【1958年 (昭和33年)】 毎日美術賞を受賞。 ルガノ国際版画ビエンナーレ展でグランプリと買上賞を受賞。 【1961年 (昭和36年)】 リュブリアナ国際版画展(ユーゴスラビア)でグランプリを受賞。 【1966年 (昭和41年)】 ポーランドのクラコウ国際版画ビエンナーレ展で特別賞を受賞。 ワルシャワ国立美術館買上賞を受賞。 【1972年 (昭和47年)】 第4回クラコウ国際版画ビエンナーレ展で「びんとさくらんぼ」が受賞。 【1977年 (昭和52年)】 リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展でサラエボ美術アカデミー賞受賞。 【1981年 (昭和56年)】 パリからサンフランシスコに移住。 和歌山県文化功労賞を受賞。 【1982年 (昭和57年)】 北カリフォルニア版画大賞展で「西瓜」がグランプリ受賞。 【1983年 (昭和58年)】 サンフランシスコ市から「市の鍵」を授与される。 【1984年 (昭和59年)】 サラエボ冬季オリンピック大会でオリンピック記念ポスターに「さくらんぼと青い鉢」が採用される。 【1985年 (昭和60年)】 ベルギー王立アカデミーの会員となる。 【1986年 (昭和61年)】 勲三等旭日中綬賞を授与。 【1996年 (平成8年)】 帰国。 【2000年 (平成12年)】 12月25日、逝去。91歳。 リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展でサラエボ美術アカデミー賞受賞。 【1981年 (昭和56年)】 パリからサンフランシスコに移住。 和歌山県文化功労賞を受賞。 【1982年 (昭和57年)】 北カリフォルニア版画大賞展で「西瓜」がグランプリ受賞。 【1983年 (昭和58年)】 サンフランシスコ市から「市の鍵」を授与される。 【1984年 (昭和59年)】 サラエボ冬季オリンピック大会でオリンピック記念ポスターに「さくらんぼと青い鉢」が採用される。 【1985年 (昭和60年)】 ベルギー王立アカデミーの会員となる。 【1986年 (昭和61年)】 勲三等旭日中綬賞を授与。 【1996年 (平成8年)】 帰国。 【2000年 (平成12年)】 12月25日、逝去。91歳。 |