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三岸節子
Setsuko Migidhi
みぎしせつこ

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    • ミモザの花/三岸節子


    • 花/三岸節子


    • 小運河の家/三岸節子


    • 静物/三岸節子


    • 寺院/三岸節子


    • 室内/三岸節子
略歴  
【1905年 (明治38年)】
1月3日、吉田永三郎・菊の四女として愛知県中島郡起町(現・一宮市)に生まれる。
先天性股関節脱臼という障害があり、歩くときには体が大きく上下動していた(6歳のとき手術)。

【1917年 (大正6年)】
名古屋淑徳高等女学校に入学。
卒業の前年、大恐慌のため父親が営む織物工場が破産。

【1921年 (大正10年)】
淑徳高等女学校を卒業し、上京して洋画家・岡田三郎助に師事。

【1922年 (大正11年)】
4月、女子美術学校(現・女子美術大学)2学年に編入。
1920年社第2回展に出品、ここで三岸好太郎と出会う。

【1924年 (大正13年)】
女子美術学校を首席で卒業。
9月、三岸好太郎と結婚。

【1925年 (大正14年)】
3月、長女・陽子を出産。
春陽会第3回展に「自画像」など初出品、初入選。のち第9回展まで毎回入選を重ねる。
婦人洋画協会結成に参加。

【1928年 (昭和3年)】
3月、次女・杏子を出産。

【1930年 (昭和5年)】
9月、長男・黄太(現・黄太郎)を出産。

【1932年 (昭和7年)】
春陽会から離れ、独立美術協会第2回展に「花・果実」「ラガー」を出品、入選。

【1934年 (昭和9年)】
7月1日、胃潰瘍のため旅行先名古屋で倒れ、夫・好太郎が死去(享年31歳)。
好太郎構想のアトリエが完成、そこで好太郎の遺作展を行う。

【1936年 (昭和11年)】
女性画家7人で七彩会を結成。
独立美術協会会友となる。

【1939年 (昭和14年)】
独立美術協会を離脱し、新制作派協会会員となる。

【1947年 (昭和22年)】
自由出品の女流画家協会の創立に発起人として参加。

【1948年 (昭和23年)】
洋画家・菅野圭介と別居のかたちをとり再婚。

【1951年 (昭和26年)】
「静物(金魚)」が昭和25年度文部省買上げ美術作品に決定。
「静物(梔子)】」
が昭和25年度芸能(現在の芸術)選奨文部大臣賞を受賞。

【1953年 (昭和28年)】
菅野圭介との結婚を解消。

【1954年 (昭和29年)】
3月、私費留学していた息子・黄太郎氏のもとへ渡仏し、翌年帰国。

【1957年 (昭和32年)】
軽井沢の山荘で独居生活。

【1964年 (昭和39年)】
現・神奈川県大磯の山荘に転居。

【1967年 (昭和42年)】
収集した好太郎の遺作220点を北海道に寄贈。

【1968年 (昭和43年)】
再び黄太郎氏一家とともに渡仏し、南仏カーニュに住む。

【1969年 (昭和44年)】
女流美術家による総合展「潮」の結成に参加。第1回展から出品。

【1974年 (昭和49年)】
ブルゴーニュの小さな農村ヴァロンに移住。

【1976年 (昭和51年)】
3月、病気のため一時帰国、大磯で静養(8月渡仏)。

【1977年 (昭和52年)】
ヒマラヤ美術館(名古屋)が開館、三岸節子作品室が設置される。

【1980年 (昭和55年)】 「トネール
の白い川」が第4回長谷川仁賞を受賞。

【1982年 (昭和57年)】 春、過労のため倒れる。
秋、フランスから帰国。

【1983年 (昭和58年)】
北海道立三岸好太郎美術館が寄贈作品を基に開館。
7月、腸の手術のため東京・順天堂病院に入院。
退院後、大磯で静養。

【1986年 (昭和61年)】
秋の叙勲で勲三等宝冠章を受章。

【1987年 (昭和62年)】
スペインのアンダルシア地方に滞在、スペイン連作の制作を開始。

【1905年 (明治38年)】
1月3日、吉田永三郎・菊の四女として愛知県中島郡起町(現・一宮市)に生まれる。
先天性股関節脱臼という障害があり、歩くときには体が大きく上下動していた(6歳のとき手術)。

【1917年 (大正6年)】
名古屋淑徳高等女学校に入学。
卒業の前年、大恐慌のため父親が営む織物工場が破産。

【1921年 (大正10年)】
淑徳高等女学校を卒業し、上京して洋画家・岡田三郎助に師事。

【1922年 (大正11年)】
4月、女子美術学校(現・女子美術大学)2学年に編入。

【1920年社第2回展に出品、
ここで三岸好太郎と出会う。

【1924年 (大正13年)】
女子美術学校を首席で卒業。
9月、三岸好太郎と結婚。

【1925年 (大正14年)】
3月、長女・陽子を出産。
春陽会第3回展に「自画像」など初出品、初入選。のち第9回展まで毎回入選を重ねる。
婦人洋画協会結成に参加。

【1928年 (昭和3年)】
3月、次女・杏子を出産。

【1930年 (昭和5年)】
9月、長男・黄太(現・黄太郎)を出産。

【1932年 (昭和7年)】
春陽会から離れ、独立美術協会第2回展に「花・果実」「ラガー」を出品、入選。

【1934年 (昭和9年)】 7月1日、胃潰瘍のため旅行先名古屋で倒れ、夫・好太郎が死去(享年31歳)。
好太郎構想のアトリエが完成、そこで好太郎の遺作展を行う。

【1936年 (昭和11年)】 女性画家7人で七彩会を結成。
独立美術協会会友となる。

【1939年 (昭和14年)】
独立美術協会を離脱し、新制作派協会会員となる。

【1947年 (昭和22年)】

自由出品の女流画家協会の創立に発起人として参加。

【1948年 (昭和23年)】
洋画家・菅野圭介と別居のかたちをとり再婚。

【1951年 (昭和26年)】
「静物(金魚)」が昭和25年度文部省買上げ美術作品に決定。
「静物(梔子)】」が昭和25年度芸能(現在の芸術)選奨文部大臣賞を受賞。

【1953年 (昭和28年)】
菅野圭介との結婚を解消。

【1954年 (昭和29年)】
3月、私費留学していた息子・黄太郎氏のもとへ渡仏し、翌年帰国。

【1957年 (昭和32年)】
軽井沢の山荘で独居生活。

【1964年 (昭和39年)】
現・神奈川県大磯の山荘に転居。

【1967年 (昭和42年)】
収集した好太郎の遺作220点を北海道に寄贈。

【1968年 (昭和43年)】
再び黄太郎氏一家とともに渡仏し、南仏カーニュに住む。

【1969年 (昭和44年)】
女流美術家による総合展「潮」の結成に参加。第1回展から出品。


【1974年 (昭和49年)】
ブルゴーニュの小さな農村ヴァロンに移住。

【1976年 (昭和51年)】
3月、病気のため一時帰国、大磯で静養(8月渡仏)。

【1977年 (昭和52年)】
ヒマラヤ美術館(名古屋)が開館、三岸節子作品室が設置される。


【1980年 (昭和55年)】
「トネールの白い川」が第4回長谷川仁賞を受賞。

【1982年 (昭和57年)】
春、過労のため倒れる。
秋、フランスから帰国。

【1983年 (昭和58年)】
北海道立三岸好太郎美術館が寄贈作品を基に開館。
7月、腸の手術のため東京・順天堂病院に入院。
退院後、大磯で静養。

【1986年 (昭和61年)】
秋の叙勲で勲三等宝冠章を受章。

【1987年 (昭和62年)】
スペインのアンダルシア地方に滞在、スペイン連作の制作を開始。

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