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河井寛次郎
Kanjirou Kawai
かわい かんじろう

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略歴  
【1890年(明治23年)】
8月24日、島根県安来町(現・安来市)で大工棟梁の家の4人兄妹の次男として生まれる。父・河井大三郎、母・ユキ。兄・善左衛門。

【1894年(明治27年)】
母・ユキが死去。

【1910年(明治43年)】
島根県立第一中学校(後の松江中学、現・松江北高等学校)を卒業。
東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科に入学。
陶芸家の板谷波山の指導を受ける。

【1912年(明治45年)】
来日中のバーナード・リーチの新作展を見て感動、後日リーチを訪問。

【1914年(大正3年)】
東京高等工業学校を卒業。
京都市立陶磁器試験所に入所。

【1916年(大正5年)】
京都市立陶磁器試験所に東京高等工業学校の後輩・浜田庄司が入所。
釉薬その他の陶磁の科学的な技術研究を行う。

【1917年(大正6年)】
京都市立陶磁器試験所を辞職。
5代清水六兵衛の技術顧問となる。
浜田庄司とともに沖縄、九州の諸窯を訪問。

【1919年(大正8年)】
浜田庄司と朝鮮、満州を旅行。

【1920年(大正9年)】
京都に居住、京都五条坂にあった五代清水六兵衛の窯を譲り受け、築窯。
鐘渓窯(しょうけいよう)と名付ける。京都の宮大工の娘・三上やす(後につねと改名)と結婚。

【1921年(大正10年)】
東京、大阪高島屋で初の個展「河井寛次郎第1回創作陶磁集」を開催。
中国、朝鮮の古陶磁の釉法を駆使した作品は、陶磁研究家・奥田誠一に絶賛され、多くの支援者をえる。

【1923年(大正12年)】
世評が高まるにつれそれまでの作風に疑問を感じ、一時、沈潜。

【1924年(大正13年)】
浜田庄司を介し柳宗悦との交流が始まる。
長女・良(後に須也子に改名)が生まれる。

【1925年(大正14年)】
柳宗悦、浜田庄司と紀州に旅行し、その時民衆の作った工芸品を民衆的工芸、略して「民芸」という新語を創作。

【1926年(大正15年)】
柳宗悦・浜田庄司らと「日本民芸美術館設立趣意書」を発表。民芸運動を展開。

【1927年(昭和2年)】
柳宗悦・富本憲吉・浜田庄司・バーナード・リーチ・黒田辰秋らと「上賀茂民芸協団」を創立。

【1929年(昭和4年)】
3年間の沈黙を破り、日常の用途に充てた作品を発表。
画期的大転換。辰砂(しんしゃ)釉に特色。

【1931年(昭和6年)】
同人雑誌「工芸」を発刊。

【1934年(昭和9年)】
バーナード・リーチ来日。鐘渓窯にて共に制作。

【1936年(昭和11年)】
柳宗悦・浜田庄司と朝鮮、中国を旅行。
]東京・駒場に「日本民芸館」を開館。
「日本民藝館」理事に就任。

【1937年(昭和12年)】
パリ万国博覧会で「鉄辰砂草花丸文壷(鉄辰砂草花図壷)」がグランプリを受賞。
自らの設計により、実兄・善左衛門を棟梁とする郷里安来の職人を呼び寄せて自宅(現・河井寛次郎記念館)を建築。

【1944年(昭和19年)】
この頃、戦争のためほとんど窯立たず、専ら文筆に没頭。

【1946年(昭和21年)】
一人娘・良に養嗣子博(後に博次と改名)を迎える。

【1947年(昭和22年)】
自作の詩集「火の願い」を棟方志功板画で制作、刊行。
自作陶板「いのちの窓」が完成。

【1949年(昭和24年)】
今までの仕事を発展させ、さらに自由な異なった角度からの造形に取り組みたいとの願望強く、作風不定形の世界に入る。
自らを陶芸界の「準禁治産者」と呼ぶ。

【1950年(昭和25年)】
木彫を制作開始。

【1955年(昭和30年)】
文化勲章を辞退。
人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退。

【1957年(昭和32年)】
ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展で「白地草花絵扁壷」がグランプリを受賞。

【1959年(昭和34年)】
見るものすべてが「面」に見え、木彫は滞まる所なきまでに発展。

【1961年(昭和36年)】
大原美術館が富本憲吉、バーナード・リーチ、浜田庄司、河井寛次郎の作品常設用に陶器館を開設。
雑誌「民藝」に「六十年前の今」を連載開始。

【1966年(昭和41年)】
11月18日、逝去。76歳。

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