絵画
- 熊谷守一
- Morikazu Kumagai
- くまがい もりかず
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白猫/熊谷守一
雨滴/熊谷守一
百日草/熊谷守一
朝のはぢまり/熊谷守一
薔薇/熊谷守一
鳩/熊谷守一
略歴 | |
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【1880年 (明治13年)】 4月2日、岐阜県恵那郡付知村(現・中津川市付知町)で岐阜市初代市長熊谷孫六郎の三男(7人兄姉の末っ子)として生まれる。父は岐阜市において生糸商を営み、同市の初代市長を4,5年つとめた後、衆議院議員になった。 【1883年 (明治16年)】 生母と離れ、岐阜市で生活をしている父と、二人の妾の住む「岐阜の家」に引き取られ幼少年時代を過ごす。 岐阜の家には異母兄弟が数人、妾の姉妹が何人か、それに女工が同居していた。 【1997年 (明治30年)】 岐阜中学3年で上京し、正則中学に転校する。 このころから画家を志望したが、父の説得により慶応義塾進学の準備を続ける(慶應義塾普通科に一学期のみ通学) 。 【1998年 (明治31年)】 共立美術学館に入学。 【1900年 (明治33年)】 4月、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。長原孝太郎、黒田清輝らの指導を受ける。 【1903年 (明治36年)】 父・孫六郎が死去。 【1904年 (明治37年)】 7月4日、東京美術学校西洋画科選科を首席で卒業。 【1905年 (明治38年)】 樺太調査隊に加わる。 以後2年間北海の島々を廻り、各地の風光、地形の記録やスケッチなどをする。このときの作品はすべて関東大震災で消失した。 【1909年 (明治42年)】 第3回文部省美術展覧会に「蝋燭」を出品、褒状を受ける。 【1910年 (明治43年)】 実母の死を機に故郷に帰る。裏木曽の山中生活を営む。 【1916年 (大正4年)】 再び上京して第3回二科会展に出品。 二科会会員になる。 【1923年 (大正11年)】 紀州和歌山の資産家の娘、大江秀子と結婚。 【1924年 (大正12年)】 長男・黄が生まれる。 【1926年 (大正14年)】 5月31日、次男・陽が生まれる。 【1927年 (大正15年)】 10月27日、長女・萬が生まれる。 この頃、貯金もまったく底をつき家の経済状態は困窮を極め、妻・秀子は質屋通いで家計を助けた。守一の仕事というのは、懐中時計の修理や音の振動数の計算を昼夜逆の生活で何ヶ月もかかってやっていた。 【1928年 (昭和3年)】 2月28日、次男・陽が肺炎で死去。 【1929年 (昭和4年)】 4月3日、次女・榧が生まれる。 二科技塾開設に参加。後進の指導に当たる。 【1931年 (昭和6年)】 7月30日、三女・茜が生まれる。 【1932年 (昭和7年)】 豊島区長崎町(現・千早)に自宅を新築して転居。 三女・茜が死去。 【1938年 (昭和13年)】 このころより再び日本画を書き始める。 【1944年 (昭和19年)】 軍の圧力により二科会は解散。 【1946年 (昭和21年)】 腎盂炎のため1ヶ月入院。 【1947年 (昭和22年)】 二紀会創立に参加。 長女・萬が肺結核で死去。 【1951年 (昭和26年)】 二紀会を退会。無所属作家となる。 【1956年 (昭和31年)】 脳卒中。以降写生旅行を断念。 【1964年 (昭和39年)】 5月、パリのダヴィット・エ・ガルニエ画廊主催で熊谷守一大個展が開催。 【1972年 (昭和47年)】 勲三等叙勲の内示があるが辞退。 【1976年 (昭和51年)】 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立。 【1977年 (昭和52年)】 6月末、呼吸困難を訴え床につく。 8月1日、肺炎のため逝去。97歳。 【2007年 (平成19年)】 11月、個人美術館であった熊谷守一美術館が次女・榧より守一作品153点の寄贈を受け、豊島区立熊谷守一美術館となる。 |