絵画
- 竹内栖鳳
- Seihou Takeuti
- たけうち せいほう
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斑猫/竹内栖鳳
保津川図/竹内栖鳳
国瑞/竹内栖鳳
アレ夕立に/竹内栖鳳
花の山/竹内栖鳳
散華/竹内栖鳳
略歴 | |
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【1864年(元治元年)】 11月22日、京都御池通油小路の川魚料理店「亀政」の長男として生まれる。本名恒吉。 【1877年(明治10年)】 四条派の土田英林に絵を教わる。 【1881年(明治14年)】 幸野楳嶺の私塾へ正式に入門。 四条派を学ぶ。 棲鳳の号を受ける。 【1882年(明治15年)】 私塾の工芸長となる。 「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれるようになる。 第1回内国絵画共進会で「雁に双鶴」「瀑布」が入選。 【1884年(明治17年)】 フェノロサと会う。 第2回内国絵画共進会で「山水」「花鳥」が褒状を受ける。 京都府画学校の北宗画科に入学。 【1886年(明治19年)】 京都青年絵画研究会結成。 第1回展で「藤原遁世」が2等賞を受賞。 【1887年(明治20年)】 京都府画学校北宗画科を修了。 絵師として独立。 結婚。 【1888年(明治21年)】 煥美協会組織。 【1889年(明治22年)】 京都府画学校の出仕となる。 【1890年(明治23年)】 第3回内国勧業博覧会展で「枯木寒鴉図」が褒状を受ける。 【1891年(明治24年)】 京都青年作家懇親倶楽部を結成。 京都私立日本絵画共進会で「秋渓遊鹿」が1等賞を受賞。 【1892年(明治25年)】 第21回京都博覧会で「猫児負喧」が3等賞を受賞。 【1894年(明治27年)】 如雲会委員となる。 【1895年(明治28年)】 京都市立美術工芸学校教諭となる。 第4回内国勧業博覧会で「松間繊月」が3等賞を受賞。 第4回日本青年絵画共進会展で「山村晩帰」が1等賞を受賞。 【1896年(明治29年)】 第1回日本絵画共進会展で「秋夕圖」が銅牌を受賞。 【1897年(明治30年)】 第1回全国絵画共進会展で「涼蔭放牧」が2等賞を受賞。 第2回日本絵画共進会展で「廢園春色」が銀牌を受賞。 第3回日本絵画共進会展で「枯野狐」が銅牌を「鯉魚」が1等褒状を受ける。 【1898年(明治31年)】 第5回日本絵画共進会展で「春雨・秋暮」が銅牌を受賞。 【1899年(明治32年)】 第7回日本絵画共進会展で「十ニケ月」が銀牌を受賞。 【1900年(明治33年)】 渡欧。 ターナーやコローなどから強い影響を受ける。 パリ万国博覧会で「犬 雪中操雀」が銅牌を受賞。 【1901年(明治34年)】 帰国。 号を栖鳳と改める。 第7回新古美術品展で「獅子」が1等賞を受賞。 【1902年(明治35年)】 第8回新古美術品展で「以太利ノ春」が1等賞を受賞。 第12回日本絵画共進会展で「古都の秋」が銀牌。 【1907年(明治40年)】 第1回文展開催にあたって、審査員になる。 【1909年(明治42年)】 京都市立絵画専門学校開校し、専任教諭となる。 【1913年(大正2年)】 12月、帝室技芸員になる。 【1917年(大正6年)】 京都市立絵画専門学校の教授となる。 【1918年(大正7年)】 国画創作協会顧問になる。 【1919年(大正8年)】 帝国美術院会員になる。 【1920年(大正9年)】 翌年と2回にわたる中国旅行、新たな画風の展開をみた。 【1924年(大正7年)】 「班猫」制作。現在、重要文化財に指定されている。 京都市立絵画専門学校の教授を辞任。 【1925年(大正8年)】 11月、勲五等瑞宝章を受章。 【1929年(大正12年)】 フランスのシュバリエ・レジョン・ド・ヌール勲章を受章。 【1930年(昭和5年)】 フランスのオフィシエ・レジョン・ド・ヌール勲章を受章。 【1931年(昭和6年)】 ハンガリー最高美術賞を受賞。 【1933年(昭和8年)】 ドイツのゲーテ名誉賞を受賞。 大礼記念京都美術館評議委員になる。 【1936年(昭和11年)】 京都市美術教育顧問になる。 【1937年(昭和12年)】 4月、横山大観とともに第1回文化勲章受章者となる。 帝国芸術院会員となる。 【1939年(昭和14年)】 大礼記念京都美術館顧問になる。 【1942年(昭和17年)】 8月23日、湯河原の別荘で逝去。78歳。 |