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絵画

竹久夢二
Yumeji Takehisa
竹久夢二(たけひさ ゆめじ)

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    • からふねや/竹久夢二


    • 夏姿 (奈良 壺阪寺)/竹久夢二


    • 黒い帯の女/竹久夢二


    • 水竹居/竹久夢二


    • ことり/竹久夢二


    • 独占ひ/竹久夢二
略歴  
【1884年(明治17年)】
9月16日、岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)の造り酒屋に次男として生まれる。父・菊蔵、母・也須能、姉・松香。兄は前年夭折、後に妹・栄が生まれる。本名・茂次郎(もじろう)。

【1895年(明治28年)】
4月、岡山県邑久郡邑久高等小学校に入学。

【1899年(明治32年)】
4月、叔父、竹久才五郎を頼って兵庫県神戸尋常中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)に入学。
12月、家事都合により8ヶ月で中退。

【1900年(明治33年)】
2月、父が家業の造り酒屋を畳み、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県遠賀郡八幡村(現・北九州市八幡東区)大字枝光に転籍。

【1901年(明治34年)】
7月、家出同然に上京。

【1902年(明治35年)】
9月、早稲田実業学校に入学。

【1905年(明治38年)】
早稲田実業学校本科を卒業し、専攻科へ進む。
6月4日付読売新聞日曜文壇に投書の「可愛いお友達」が初めて活字となる。
「平民新聞」にコマ絵などを描く。
「中学世界」に投書したコマ絵「筒井筒」が第一賞に入選。
「夢二」の名が初めて用いられ、投書家時代を終え画家としてスタートする。
早稲田実業学校専攻科を中退。

【1907年(明治40年)】
1月、岸たまきと結婚。
たまきをモデルに「夢二式美人」生まれる。
4月、読売新聞社入社。時事スケッチを掲載。

【1910年(明治41年)】
2月、長男・虹之助が生まれる。

【1909年(明治42年)】
5 月、岸たまきと協議離婚。
12月、最初の著作『夢二画集 春の巻』刊行。
ベストセラーとなり夢二の抒情画は人気を博す。

【1910年(明治43年)】
1月、再びたまきと同居。
6月、エハガキ「月刊夢二カード」第一集を発行。
8月、たまきと銚子町海鹿島に過す。

【1911年(明治44年)】
5月、次男・不二彦が生まれる。
9月、「月刊夢二エハガキ」を刊行。

【1912年(大正元年)】
11月、京都府立図書館において第1回作品展覧会を開催。

【1913年(大正2年)】
6月、「少女」誌上に「さみせんぐさ」の筆名で「宵待草」を作詞(小唄)。

【1914年(大正3年)】
10月、日本橋呉服町に夢二デザインの千代紙や和装小物を商う「港屋」を開店。
笠井彦乃と知り合い、 後に結ばれる。

【1915年(大正4年)】
婦人之友社より雑誌「子供之友」「新少女」創刊。
絵画主任として挿絵を描き始める。

【1916年(大正5年)】
2月、三男・草一が生まれる。
4月、初めてセノオ楽譜を装幀。以後、270余のセノオ楽譜の装幀。

【1917年(大正6年)】
2月、京都清水二年坂に転居。
夏、彦乃と共に金沢市湯涌温泉に旅行。
「宵待草」に宮内省雅楽部のヴァイオリニスト多忠亮が曲をつけ芸術座音楽会にて発表。全国的なヒットとなる。

【1920年(大正9年)】
1月16日、彦乃がお茶の水順天堂医院にて死去。
春、「長崎十二景」が完成。
11月、大阪時事新報に「凝視」の挿絵連載を始める。

【1921年(大正10年)】
7月、モデルのお葉(本名・佐々木カネヨ)と渋谷宇田川に所帯を持つ。
冬「女十題」が完成。

【1922年(大正11年)】
春、山形方面へ旅行、滞在。夏、次男・不二彦と富士登山。

【1923年(大正12年)】
8月、都新聞に小説「岬」を連載。
9月、関東大震災により恩地孝四郎らとともに企画した「どんたく図案社」は現実寸前に潰滅。

【1924年(大正13年)】
「婦人グラフ」に表紙や口絵の掲載を始める。
12月、東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)にアトリエ付新居「少年山荘」(山帰来荘)が完成。転居。

【1925年(大正14年)】
作家・山田順子と交渉を持ち、お葉とは離別。後、順子とも別れる。

【1928年(昭和3年)】
3月、母・也須能が妹・日下栄宅で死去。

【1931年(昭和6年)】
2月、父・菊蔵が妹・日下栄宅で死去。
榛名山美術研究所建設の準備を進める。
5月7日、横浜港より渡米。

【1932年(昭和7年)】
9月、アメリカより渡欧。ドイツ、オーストリア、フランスなど各地を訪れる。

【1933年(昭和8年)】
9月18日、帰国。
10月26日、台湾を訪れる。
11月、体調を悪化させ帰国、病臥。

【1934年(昭和9年)】
1月、信州富士見高原療養所の正木不如丘院長に迎えられ、特別病棟に入院、手厚い看護を受ける。
9月1日、信州富士見高原療養所で結核のため逝去。49歳。
東京雑司ヶ谷墓地に埋葬され有島生馬氏の筆になる「竹久夢二を埋む」の碑が建てられる。

【1956年(昭和31年)】
豊島区史跡に指定される。

【1966年(昭和41年)】
岡山市西大寺に夢二郷土美術館を開設。

【1970年(昭和45年)】
瀬戸内市邑久町本庄の竹久夢二生家を整備し、美術館として公開。

【1981年(昭和56年)】
5月、群馬県伊香保に「竹久夢二伊香保記念館」が開館。

【1984年(昭和59年)】
3月、岡山市浜に、夢二生誕100年を記念して「夢二郷土美術館新本館」を建設、開館。夢二生家・少年山荘を分館とする。

【1990年(平成2年)】
11月3日、東京都文京区弥生に「竹久夢二美術館」が開館。

【1998年(平成10年)】
10月10日、鬼怒川温泉に「日光竹久夢二美術館」が開館。

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