絵画
- 奥村土牛
- Togyu Okumura
- 奥村土牛(おくむら とぎゅう)
ご売却に関しての詳しい情報は買取方法についてをご覧ください。
醍醐/奥村土牛
舞妓/奥村土牛
閑日/奥村土牛
鳴門/奥村土牛
吉野/奥村土牛
枇杷と少女/奥村土牛
略歴 | |
---|---|
【1889年(明治22年)】 2月18日、東京市京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋1丁目)の出版業を営む家に生まれる。父・金次郎、母・たま。本名・義三(よしぞう)。 【1899年(明治32年)】 日本橋区城東尋常小学校を卒業。 高等科に進学するも、病弱の為一年あまりで中退。 【1905年(明治38年)】 梶田半古門に入門、塾頭の小林古径の指導を受ける。 【1906年(明治39年)】 日本絵画展覧会で「菅公の幼時」が入選。 【1907年(明治40年)】 東京勧業博覧会で「敦盛」が入選。 【1911年(明治44年)】 逓信省貯金局統計課に勤務。 ポスターなどを描く仕事に従事。 【1916年(大正5年)】 逓信省貯金局統計課を退職。 【1917年(大正6年)】 初のスケッチ集「スケッチそのをりをり」を父の出版社から出版。 「土牛」の雅号を使用し始める(父が寒山詩の中から名付ける)。 【1920年(大正9年)】 この年より約2年間、馬込の小林古径の画室に留守番役を兼ねて住み込み、画室での古径の態度から大いに感銘を受ける。 【1923年(大正12年)】 関東大震災で家が焼け落ち、ほとんどの作品を失い、京橋から下高井戸に転居。 中央美術社第5回展で「家」が中央美術賞を受賞。 【1927年(昭和2年)】 9月、第14回院展で「胡瓜畑」が初入選。 古径の紹介により速水御舟の研究会で教えを受ける。 【1929年(昭和4年)】 9月、第16回院展「蓮池」により日本美術院々友となる。 11月、小林古径の媒酌で徳島生まれの森仁子と結婚。 麻布市兵衛町(現・東京都港区)に住む。 【1932年(昭和7年)】 6月、日本美術院同人となる。 【1935年(昭和10年)】 10月、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科教授に就任。 【1936年(昭和11年)】 2月、改組第1回帝展で「鴨」が満場一致で推奨第1位 。政府買上げとなる。 【1937年(昭和12年)】 3月、父・金次郎が死去。 【1940年(昭和15年)】 1月、風邪から肺炎を併発、臥床半年に及ぶ。 【1944年(昭和19年)】 6月、東京美術学校(現・東京芸術大学)の講師に就任。 「信濃の山」を文展に出品し、政府買上げとなる。 【1945年(昭和20年)】 2月、母・たまが死去。 5月、空襲のため家が焼け、長野県南佐久郡臼田町に疎開。 【1947年(昭和22年)】 4月、帝国芸術院(現・日本芸術院)会員になる。 11月、長野県南佐久郡穂積村へ転居。 【1948年(昭和23年)】 武蔵野美術大学の講師に就任。 【1951年(昭和26年)】 11月、信州を引き払い、東京都杉並区西永福に転居。 12月、東京芸術大学講師を辞して、武蔵野美術大学教授に就任。 【1953年(昭和28年)】 3月、多摩美術大学日本画科の教授に就任。 【1958年(昭和33年)】 日本美術院監事・評議員に就任。 【1959年(昭和34年)】 1月、日本美術院理事となる。 第44回院展に戦後の日本画の最高傑作と言われる「鳴門」(山種美術館蔵)を発表。 【1962年(昭和37年)】 11月、文化勲章を受章。併せて文化功労者となる。 【1966年(昭和41年)】 武蔵野美術大学教授を辞任。 多摩美術大学日本画科の教授を辞任。 【1967年(昭和42年)】 1月から朝日新聞に連載された大仏次郎作「天皇の世紀」の挿画の一部を担当執筆。 【1978年(昭和53年)】 2月、東宮御所の「白樺」、4月、皇居新宮殿の「富士」の二作品が完成、それぞれ収められる。 5月、日本美術院理事長に就任。 【1980年(昭和55年)】 10月、東京都名誉都民となる。 【1982年(昭和57年)】 11月、盲腸炎のため虎の門病院に入院。 【1983年(昭和58年)】 2月、全快。 【1988年(昭和63年)】 2月、白寿を記念して、天皇陛下より銀杯三ツ重、皇太子殿下より御所の紅白梅を賜る。 【1990年(平成2年)】 5月20日、長野県南佐久郡八ケ穂村に、「奥村土牛記念美術館」が開館。 9月25日、東京にて逝去。101歳。従三位に叙される。 |