絵画
- 前田青邨
- Seison Maeda
- まえだ せいそん
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鵜/前田青邨
山路之秋/前田青邨
紅白梅/前田青邨
蓮台寺の松陰/前田青邨
腑分/前田青邨
桔梗/前田青邨
略歴 | |
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【1885年(明治18年)】 1月27日、岐阜県恵那郡中津川村(現・中津川市)で次男として生まれる。父・常吉、母・たか。本名・廉造(れんぞう)。 【1897年(明治30年)】 3月、中津尋常高等小学校を卒業。 【1898年(明治31年)】 母・たかが死去。 上京し、叔父の営む東京本郷根津の「東濃館」に身を寄せる。 【1901年(明治34年)】 尾崎紅葉のすすめで、梶田半古の塾に入る。 【1902年(明治35年)】 師・半古から「青邨」の雅号をもらう。 第12回日本絵画協会日本美術院連合共進会で「金子家忠」が3等賞褒状を受賞。 【1906年(明治39年)】 「巽画会」に参加。 【1907年(明治40年)】 「紅児会」に参加。 【1908年(明治41年)】 国画玉成会展で「囚はれたる重衡」が3等賞首席。 【1911年(明治44年)】 11月、荻江節初代家元の妹・佐橋すゑと結婚。 第5回文展に「法華経」「竹取」を出品し褒状を受ける。 【1912年(大正元年)】 第6回文展で「御輿振」が3等賞を受賞。 【1914年(大正3年)】 再興日本美術院第1回展より出品し、同人となる。 【1918年(大正7年)】 日本美術院評議員となる。 大阪高島屋で初の個展を開催。 【1922年(大正11年)】 日本美術院留学生として、林古径と渡欧。 ローマ・フィレンツェ・パリに滞在。 【1929年(昭和4年)】 第16回院展に出品した「洞窟の頼朝」は近代歴史画の代表作といわれ、翌年第1回朝日文化賞を受賞。 【1930年(昭和5年)】 日本美術院経営者となる。 【1935年(昭和10年)】 帝国美術院会員となる。 【1944年(昭和19年)】 帝室技芸員となる。 【1945年(昭和20年)】 郷里中津川に疎開。 終戦後北鎌倉の自宅に戻る。 【1950年(昭和25年)】 東京芸術大学の日本画科主任教授となる。 【1955年(昭和30年)】 文化勲章を受賞。 中津川市名誉市民となる。 【1956年(昭和31年)】 日本美術家連盟会長となる。 【1958年(昭和33年)】 日本美術院常務理事となる。 【1959年(昭和34年)】 国立近代美術館評議員となる。 【1960年(昭和35年)】 訪中日本画家代表団団長として中国を訪問。 【1962年(昭和37年)】 東京芸大名誉教授となる。 【1964年(昭和39年)】 日光二荒山神社宝物館壁画「山霊感應」を完成、奉納。 【1966年(昭和41年)】 郷里の中津川に中津川市青邨記念館が開設。 【1967年(昭和42年)】 法隆寺金堂壁画再現のため、安田靫彦とともに総監修に就任。 【1970年(昭和45年)】 皇居新宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」に「石橋」を制作。 【1972年(昭和47年)】 高松塚古墳壁画模写の総監督になる。 【1974年(昭和49年)】 ローマ法皇庁からの依頼で「細川ガラシャ夫人像」を完成。バチカン宮殿に納める。 【1977年(昭和52年)】 10月27日、老衰のため鎌倉で逝去。92歳。 |