西洋美術(アンティーク)
- エミール・ガレ
- Emile Galle
- エミール・ガレ
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エミール・ガレ
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エミール・ガレ
略歴 | |
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【1846年 (弘化3年)】 5月4日、フランス北東部ロレーヌ地方ナンシーでガラス業・陶芸業を営む家に生まれる。 父は、クレルモン=スュル=オワーズ出身のシャルル・ガレ。母は、ファニー・レーヌメール。本名は、シャルル・マルタン・エミール・ガレ。 【1858年 (安政5年)】 ナンシー帝立高等中学校(リセ)に入学。 哲学、語学、文学に優れた才能を発揮し、「詩」には特に深く通じていた。 課外では、デッサンや風景画の授業を受け、又、当時名高いD・A・ゴドゥロン教授についてかなり専門的に植物学を学ぶ。 【1862年 (文久2年)】 リセを卒業。 ドイツのヴァイマールに留学。 文学、哲学、植物学に加え鉱山学を学ぶ。さらに、建築と装飾の美術について勉学を修める。 【1864年 (元治元年)】 ナンシーへ戻り、父の工場で製品の絵付けを手伝う。 【1865年 (慶応元年)】 再び、ドイツに留学。 ワイマールの市立芸術学校で建築装飾美術を専攻。 【1866年 (慶応2年)】 ドイツ(現・フランス領)・マイセンタール(マイゼンタール)】のブルグン・シュヴェレル工房(ブルグン・シュヴェーラー社)】で本格的なガラス製造の技術を学ぶ。 【1868年 (慶応4年)】 ナンシーの父の工場で絵つけを担当。 【1871年 (明治4年)】 退役。 父についてイギリスを訪問。 現在のヴィクトリア・アンド・アルバード美術館を見学し、古代ガラスの魅力にとりつかれた。この旅行の帰路の途中、パリ、イタリア、スイスを周り、美術館や植物園に訪れ見開を広める。 【1872年 (明治5年)】 自分のガラス工房を生地に開き、この地をナンシー派アール・ヌーヴォーの大中心地とした。 【1873年 (明治6年)】 父・シャルルがナンシーのラ・ガレン通りに屋敷を建築。 【1874年 (明治7年)】 エミールは分散されていた家業のガラス工場をナンシーに集め、ガラス製造に意欲を燃やす。 父の経営する陶器・ガラス会社の芸術部門の責任者となる。 【1875年 (明治8年)】 牧師の娘・アンリエット・グリムと結婚。 この頃から積極的にガラス作品の制作を開始。 【1877年 (明治10年)】 父に代わって工場管理責任者となる。 ナンシー中央園芸会の創立メンバーとなり、事務局長となる。 【1878年 (明治11年)】 パリ万国博覧会(パリ万博)で園芸用陶器部門で銀賞、ガラス・陶器部門に独自に開発した「月光色ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)」や陶器を出品し、銅賞を受賞。 月光色ガラスを特許出願。 【1884年 (明治17年)】 装飾美術中央連盟主催の「石木土そしてガラス」展で金賞を受賞。 【1885年 (明治18年)】 レジオン・ドヌール勲章(シュバリエ5等)】を受章。 フランス留学中の日本画家・高島得三(後の高島北海)】と出会う。 【1886年 (明治19年)】 ナンシーの自宅近辺に建設した家具工房で木工家具の製造を開始。 【1889年 (明治22年)】 パリ万博に300点余のガラス器を出品、ガラス部門で「ソロモン王の壺」がグランプリ、陶器部門で金賞、家具部門で銀賞を受賞。 装飾工芸家として国際的な評価を得る。特に黒褐色のガラス素地を使用した一連の作品(「悲しみの花瓶」シリーズ)】は評判となる。 【1894年 (明治27年)】 家具工場が建つ敷地を買い増しして、ガラス製造のための工場を完成。 自社内での一貫生産を開始。 【1898年 (明治31年)】 「マルケトリ技法」「パチネ素材」で特許を取得。 【1900年 (明治33年)】 パリ万博に、大量のガラス作品を出展し、ガラス・家具部門で「ソロモン王の壺」がグランプリを獲得。 レジオン・ドヌール勲章(コマンドゥール3等)】を受章。 ガレ・クリスタルの社長として、また、アール・ヌーボー・ナンシー派の中心的指導者として活躍。 芸術と産業の融合を理想にかかげ、手作りの良さを残した優美なガラス器の製造を工業化し、300人の職人が工場で分業生産を実施。 分裂症を患う。 【1901年 (明治34年)】 ナンシー在住の画家、彫刻家、デザイナーにより「エコール・ド・ナンシー(ナンシー派)】」を設立。会長に就任。 【1902年 (明治35年)】 父・シャルルが死去。 最愛の父の逝去によるガレの落胆ぶりはかなりひどく、より一層、自らの殻に閉じこもるようになった。その後、少し落ち着きを取り戻したエミール・ガレは、悟りの境地に達したような気高い作品の制作。 【1904年 (明治37年)】 9月23日、ナンシーで白血病のため逝去。58歳。 エミール・ガレの死後、「ガレ商会」と名前を変え、ガレの親友で画家のヴィクトール・プルーヴェと夫人のアンリエット・ガレによって経営。 未亡人はガレ商会時代に工場の敷地を拡大し製造施設の拡充を行い、増産体性を充実させていったが、製造品目はエッチングによるカメオ彫り製品に集約。 【1914年 (大正3年)】 第一次世界大戦中で、製造を中止。 【1918年 (大正7年)】 娘婿・ポール・ペルドリーゼが製造を再開。 「スフレ技法」と呼ばれるベースカラーの傘の上に色ガラスを被せ、それをサンドブラストで削り、デザインを仕上げるという方法を使用。 【1931年 (昭和6年)】 会社は解散し工場の敷地は分割してオークションにかけられる。 【2001年 (平成12年)】 1月、ルーマニアに「ART STYLE S.R.L社(工房)」(エス・シー・ミレニアム・アートスタイルエス・アール・エル)】が設立。エミール・ガレの作品をはじめとするアール・ヌーヴォー芸術を、当時と同じ技法で制作。 |