近代陶芸
- 加藤唐九郎
- Toukurou Kato
- かとう とうくろう
ご売却に関しての詳しい情報は買取方法についてをご覧ください。
略歴 | |
---|---|
【1898年(明治31年)】 1月17日、(1898年7月19日という説もある)愛知県春日井郡水野村(現・瀬戸市水の町)で半農半陶で窯業を営む家の長男として生まれる(次男という説もある)。 父・加納桑次郎、母・みと。 幼名・庄九郎。 祖母・たきの実家は、加藤姓で歴代の窯元。 庄九郎は家長の名。 【1905年(明治38年)】 古窯跡の陶片を集めることが日課となる。 【1913年(大正2年)】 中根聞天塾に入学。 陶器の絵付けを学習。 【1914年(大正3年)】 父・桑治郎より窯の権利を譲り受け、製陶業を開始。 祖母の加藤姓への復籍を試みる。 名を「庄九郎」から「唐九郎」に改名。 【1915年(大正4年)】 中根聞天塾高等科を卒業。 「黄瀬戸藁苞向付」を制作。 【1916年(大正5年)】 「瀬戸図案研究会」に通う。 【1918年(大正7年)】 幼馴染みの加藤きぬと結婚。 瀬戸の古窯調査、研究を開始。 【1921年(大正10年)】 陶芸を再開。 【1927年(昭和2年)】 加藤姓に復籍。 4月26日、三男・重高(陶芸家の加藤重高)が生まれる。 製陶の企業経営を諦め、陶芸の個人作家に専念。 【1929年(昭和4年)】 1月、瀬戸の窯跡調査・収集品の整理陳列をに「官民一体の「瀬戸古窯調査保存会」を結成。 常任理事となる。 藤井達吉、唐九郎の窯にて制作。 四男・四郎が生まれる。 【11月、瀬戸市祖母懐町に製作拠点を移す。 【1930年(昭和5年)】 志野茶碗「氷柱」を制作。 美術愛知社展で入選。 【1931年(昭和6年)】 日蓮650年遠忌に三島の鉢650個大石寺に奉納。 第12回帝展で「黄瀬戸魚紋花瓶」が初の入選。 【1932年(昭和7年)】 美濃大萱古窯発掘調査を開始。 次女・マリエが生まれる。 加藤唐九郎命名「瀬戸物祭り」この年より開始、今日に至る。 【1935年(昭和10年)】 瀬戸守山町(現・名古屋市守山区)小幡翠松園へ転居、移窯。 五男・柳治が生まれる。 【1936年(昭和11年)】 「陶器大辞典」全六巻が完結。 雑誌「星岡」に「織部こそ真の日本焼きなり」を発表。 【1943年(昭和18年)】 愛知県西加茂郡に築窯。 平戸橋(現・豊田市)へ疎開。 「瀬戸窯」を再興「古志戸窯」と命名。 【1947年(昭和22年)】 日本陶業連盟内に「日本陶芸協会」を設立。 理事長に就任。 【1948年(昭和23年)】 「芸術陶磁器認定委員会」の中央委員兼事務局長に就任。 【1951年(昭和26年)】 「日本平和委員会」の理事に就任。 【1954年(昭和29年)】 荒川豊蔵、石黒宗麿、加藤土師萌、金重陶陽らと「桃里会」を結成。 【1956年(昭和31年)】 文化芸術使節団の一員としてインド、エジプト、ギリシャ、イタリア、フランス、ソ連、モンゴル、中国、朝鮮民主主義共和国、ベトナムを歴訪。 「世界陶磁全集」桃山編に「志野・黄瀬戸・織部」を執筆。 第9回中日文化賞を受賞。 【1957年(昭和32年)】 「日ソ工芸展」の実行委員長、「日本工芸会」の理事に就任。 【1959年(昭和34年)】 「永仁銘瓶子」が重要文化財に指定。 【1960年(昭和35年)】 ヨーロッパ各国歴訪。 国の重要文化財に指定された永仁銘瓶子が加藤唐九郎の作であったとする「永仁の壺」事件起こる。 これまで勤めてきた公的職務をすべて辞任。 母・みとが死去。 【1965年(昭和40年)】 毎日芸術賞を受賞。 【1970年(昭和45年)】 第1回東海伝統工芸展審査員となる。 「茶道美術全集 第3巻 茶腕・和物」を執筆。 NHK「日本史探訪・光悦」に出演。 【1971年(昭和46年)】 愛知県陶磁資料館建設委員に就任。 【1974年(昭和49年)】 「日本のやきもの 瀬戸」を執筆。 【1983年(昭和58年)】 中日新聞で「かまぐれ往来」を連載。 中国北京社会科学院に陶壁「協調・交響」を制作。 東海テレビで「北京に渡る 唐九郎陶壁」が放映。 東海テレビで「唐九郎中国を行く」が放映。 【1985年(昭和60年)】 NHKで「日曜美術館 アトリエ訪問」が放映。 名古屋大学病院に入院。 NHK歴史ドキュメント「謎」第6回「家康暗殺ー古田織部」に出演。 【12月24日、心筋梗塞のため逝去。 87歳。 |