近代陶芸
- 岡部嶺男
- Mineo Okabe
- おかべみねお
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略歴 | |
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【1919年(大正8年)】 10月3日、愛知県東春日井郡瀬戸町(現・瀬戸市窯神町)窯神山の頂・陶土の上に、窯道具製造業・加納家に長男として生まれる。 当主の桑次郎の初孫として大事に育てられ、窯道具製造の叩きの技術・陶土の知識を得つつ、また付近にあった丸窯の火を見ながら育つ。 父親は陶芸家・加藤唐九郎。母、きぬ。次男は陶芸家・加藤重高。 【1926年(大正15年)】 瀬戸市道泉小学校に入学。 【1927年(昭和2年)】 加納から加藤と改姓。 【1928年(昭和3年)】 瀬戸市一里塚に転居。 【1932年(昭和7年)】 愛知県立瀬戸窯業学校(現・瀬戸窯業高校)に入学。 【1934年(昭和9年)】 東春日井郡守山町小幡(現・名古屋市)に転居。 【1937年(昭和12年)】 瀬戸窯業学校を卒業。 【1938年(昭和13年)】 東京物理学校(現・東京理科大学)に入学。 学業のかたわら、頻回に帰省し、作陶に励む。 【1940年(昭和15年)】 12月、東京物理学校を中退。 入営。 内蒙古部隊に入隊。 【1944年(昭和19年)】 夏、フィリピンへ転戦。 【1945年(昭和20年)】 フィリピンにて米軍捕虜となる。 【1947年(昭和22年)】 1月、復員。 愛知県西加茂郡猿投町平戸橋(現・豊田市)に居を定める。 【1949年(昭和24年)】 岡部辰子と結婚。 愛知県西加茂郡猿投町平戸橋で独立、製陶を開始。 【1950年(昭和25年)】 夏、長男・辰男が生まれる。1週間後に死亡。秋、日展に初出品。 【1952年(昭和27年)】 2月27日、長女・麻美が生まれる。 【1953年(昭和28年)】 夏、小山富士夫を初めて来訪。 【11月2日、次女・美喜が生まれる。 【1954年(昭和29年)】 秋、青織部縄文壺が、日展北斗賞を受賞。1縄文の作風を完成。 【1955年(昭和30年)】 東京・日本橋丸善にて個展を開催。 第1回日本陶磁協会賞受賞するが辞退。 【1956年(昭和31年)】 日展を脱退。 【1957年(昭和32年)】 日本工芸会会員となる。 【1960年(昭和35年)】 春、肺結核を発病。 国の重要文化財に指定された永仁銘瓶子が父・唐九郎の作であったとする「永仁の壺」事件起こる。 嶺男はこれに自らの作であったと主張。 事件は大きな話題となるが、当事者の死によって真相は闇の中となってしまう。 【1963年(昭和38年)】 日本工芸会を脱会。 この頃から青瓷の研究本格化。 9月、愛知県愛知郡日進町に転居。 【1965年(昭和40年)】 粉青瓷砧の焼成に成功。 【12月、紺綬褒章を受章。 【1967年(昭和42年)】 粉青瓷二重貫入が完成。 【1969年(昭和44年)】 3月、新宮殿正殿梅の間に粉青瓷大砧一対を納める。 【1970年(昭和45年)】 窯変米色瓷が完成。 世に「嶺男青瓷」と謳われる格調高い作品を次々と生み出す。 【1978年(昭和53年)】 7月23日、脳出血にて入院。右半身不随となるも一命をとりとめる。 加藤から妻方の姓・岡部へ改姓。 【1985年(昭和60年)】 12月24日、父・加藤唐九郎が死去。 【1990年(平成2年)】 9月4日、呼吸不全のため逝去。70歳。 自宅にてベートーベン作曲、弦楽4重奏作品132による音楽葬。 |